『先生と呼ばれる人に知ってほしい』保護者は子どもが迷惑をかけているのではないか?自分はモンスターペアレントではないか?と気にしています。

一貫性のない考え気分での評価

表向きの教育現場では「個性を伸ばそう」がうたい文句になってきている中、学校や社会は「みんな同じことが出来るように」「いう事聞く子が賢い子」
が根強く、一貫性のない気分での評価に親も子どもも混乱している気がします。 
「この対応はどう思われますか?」と子どもに合った対応を保護者に相談し
知識のアップデートから、まずは考えて行動してみる事で子どもが変わる事を実感しています。 私個人はもちろん、教育現場全体で新しい教育の知識が増えてほしいと望んでいます。 

保護者の悩みはつきない

先生からは、どうしたらいいのか? わかりません。
「どうしましょう?」「ご家庭でしっかりやってきて下さい」と言われ
保護者は【本当にすいません】【はい。家でやってみます】と頭を下げる事に慣れてしまっています。 沢山の親子が心をすり減らし、学ぶ権利もどこへ行ったのやら毎日の対応にひどく疲れ、長い間苦しむことになる。
こんなに苦しむのに何も変わらない理由は、ほとんどの子たちは先生にさほどの迷惑をかけず保護者が厳重に気に掛けなくとも何らかの成長や発達を獲得して楽しく過ごすことができるからだと思う。
一部の子たちすなわちマイノリティーに寄り添うではなくて
ほぼほとんどの多数に寄せてこい!というならそれはむしろ教育ではなくて軍隊だと私は思っています。

当たり前の事を大きな声で言うだけの人

当たり前の事を大きい声で言わないようように意識しています。
当たり前の事とは
すぐに疲れたと言います。よくこぼします。食べるのがとても遅いです。
よく間違えます。すぐ怒ります。すぐ泣きます。人をたたきます。じっとしていません。うるさいです。
↑誰が見てもわかるような事を当たり前の事と言っています。

【具体例】保護者への対応

例えば
『給食の時間におかずをこぼしたんです。』と報告された保護者は
本当に申し訳ございません。と言って心を委縮させるでしょう。
しかし
『給食の時におかずをこぼしましたが、すぐさまフキンをもって慌てて拭いていたんですよ。』と報告されると保護者は少し希望を持つのではないかと思います。
前者は結果だけを見たんだなと思いますし
後者はまっすぐに子ども自身を見たんだなと気づかされます。

保護者の対応と子どもの対応は通じるものがある

例えばテストでの間違いに
『計算ミスが多いよ、よく見て計算してください』と言われる子どもと
『問題文もしっかり読めてる式も正確にかけてるよ、あとは計算だけだ惜しかった』と言われる子どもではどちらがやる気をなくしどちらがやる気を失わずに済むだろう。
前者はテストの✖を見つめたし
後者は子ども自身を見つめたんだなぁと思う。

子ども自身をまっすぐに見つめ続ける人からの言葉にはやる気を起こすエネルギーが込められているような気がするし私もそうでありたいと日々意識しています。

保護者は悩みをずっと辛抱するしかないのでしょうか?

このようなご相談を受けることは珍しくありません。
そんな時に私は
我慢と辛抱を頭の中でしっかり区別している事をお話しています。
田舎の長男の嫁として同居生活をしていくうえでも大きく役に立ったからです。
自分がやりたくないことや嫌なことをさせらる時には我慢が付きものでした。
常に受け身だったからです。
これに対して辛抱は、何かの為になる事や挑戦が実現するための努力の過程で辛い気持ちを言い表わしたものであると学びました。
受け身であれば我慢という心をすり減らすものとなるけれど、受け身をやめて、自分が一番前に立って山をこえなければならなくなると気は滅入るどころか
エネルギーになる事がありました。
いつもサリバン先生の事を頭に置いています。
彼女はどれほどの時間をかけて一つ一つに取り組んだのだろうかと思います
見えない・聞こえない・話せないを分かったうえで教育し世に出し世界中の人達に希望を与えました。 有名すぎる話ですが実話です。現実です。
もうええやん、どうせ無理、の大多数の中 色んな辛抱の先には必ず光があると信じています。 
未熟な私には大した言葉をお伝え出来ないことが残念でなりませんが
一言を私の大切な保護者様に送ります。

辛抱上等!

080−3867−7100(今すぐ!お電話)
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